アントニオ猪木さん死去、アントニオ猪木さんの心に残ってるエピソード3選
元プロレスラーで、「燃える闘魂」のキャッチコピーで人気だったアントニオ猪木さんが79歳でお亡くなりになりました。
アントニオ猪木さんといえば、力道山に弟子入りしてプロレスデビュー。
それから新日本プロレスを立ち上げ、数々の激闘を繰り広げました。
日本のプロレス界の大きな礎を築いたアントニオ猪木さんは、数々の伝説が残っています。
アントニオ猪木さんが戦っている姿ももちろんかっこいいのですが、器が大きくスケールが大きいところもかっこいいです。
アントニオ猪木さんがどんな方だったのか、伝説ともいえるエピソードをご紹介したいと思います(エピソードは敬称略の部分あり)
ほとんどの技を禁止された状態で戦ったモハメド・アリとの異種格闘技戦
10年くらい前に読んだ記事ですが、ボクシングの世界チャンピオンのモハメド・アリと異種格闘技戦をした時のエピソードを関係者が語った記事を読みました。
ここからは私の記憶ですが、当時新日本プロレスを立ち上げたばかりで、なんとか知名度を広げたいと考えたアントニオ猪木さんは、当時ボクシングの世界チャンピオンで有名だったモハメド・アリに異種格闘技を打診しました。
モハメド・アリ側からすると、日本の聞いたことがないプロレス団体で、戦うメリットがあまりありません。
また、ケガをすれば本業のボクシングに影響してしまいます。
そこで、モハメド・アリ側から投げ、関節技、上半身へのキックなど、ほとんどのプロレス技を禁止する条件が提示されました。
モハメド・アリ戦での不可解な戦い方にはこのような裏事情があったようです。
ほとんどの技を禁止される中、それでもなんとか勝てる方法を考えて、編み出したのがあの有名なアリキックです。
立っている状態だったら、ほとんどの技を禁止されていてモハメド・アリのパンチを受けてしまう、そこで自分が寝ている状態でモハメド・アリの足をキックするという戦法を考えたのです。
ボクシングでは寝ている相手を攻撃することがないため、これにモハメド・アリはなす術がなく、お互い決定的な攻撃が出せないまま試合が終了。
この試合でモハメド・アリは足が血栓症になり、アントニオ猪木も足の甲を骨折、まさに激闘です。
いきなり黄金出説の「獲ったどー」の元ネタはアントニオ猪木さん
いきなり黄金伝説で、よいこの濱口さんが海に潜り、食材を獲って海面から出てきた時に叫ぶ「獲ったどー」。
濱口さんの真似をしていろいろな人が言っていましたが、「獲ったどー」の元ネタになっているのは、アントニオ猪木さんの「折ったどー」です。
1976年12月、パキスタンの英雄アクラム・ペールワンと戦いました。
アントニオ猪木がアクラム・ペールワンの腕の関節を決めたがギブアップせず、そのまま関節を決め続けた結果、アクラム・ペールワンの腕が脱臼。
骨が折れたと思って咄嗟に「折ったぞー」と叫んだのが元ネタです。
湾岸戦争で日本人人質を解放
1990年、イラクのサダム・フセイン大統領がクウェートに侵攻し、湾岸戦争が始まりました。
当時イラクには41人の日本人が取り残されていて、国外移動禁止処置が取られ、事実上の人質にされていました。
なんとか救出したいが、戦争状態の国に民間機を飛ばすのは危険、かといって事実上の軍の自衛隊機で救出することもできません。
外務省がイラクと解放交渉をしましたがなかなか進展しませんでした。
人質がどうなるか国民が心配する中、当時参議院議員だったアントニオ猪木さんがイラクで「スポーツと平和の祭典」を興行すると発表。
「そんな危ない場所に行って人質が増えたらどうするんだ」と世間から猛バッシングを浴び、政府から中止するよう求められるも強行。
自費でトルコの航空会社の飛行機をチャーターしてイラクに行き、人質41人全員を日本に連れて帰りました。
心よりご冥福をお祈りいたします
その他、国会であの「元気ですかー!」をやって、国会議長から注意をされるなど、数多くのエピソードがあります。
プロレス界の大きな礎を築き、やることのスケールが大きくて、憧れの人でした。
難病を患われて痩せてしまいましたが、闘病している動画を投稿していて、また元気な姿を見せてくれると思っていました。
本当に偉大な方が亡くなられてショックです。
心よりご冥福をお祈りいたします。
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